確定事項

「良かった。ここにいた」
ベランダに出ると、煙草を片手にスマホを扱っていた樹が顔を上げた。スマホに夢中で俺が帰ってきたことに気付いてなかったのか、驚いた後、片手を挙げてヒラヒラと手を振ってみせる。
今日は映画の映像撮りの日で、樹は夕方までの収録で仕事が終わりだった。元々遅くなるのは確定していたが、予定よりも少し時間が押してしまった。今日は樹が家に来ると分かっていたから押すと聞いた時は肝が冷えたけれど、日付が変わる前に帰って来られて良かった。
ただ、一瞬リビングにいないから少しヒヤッとしたけれど、ちょうど煙草の時間だったみたいだ。
「おかえり」
「ただいま」
フッと笑った樹は煙草を口に咥えると、煙を吸い込んで肺を満たした後、ゆっくりと白い煙を吐き出した。
それはゆるりと夜の空気の中に溶けて消えていく。煙草は吸わないし、好きか嫌いかと聞かれれば、あまり好きではないけれど、揺らめく煙は嫌いじゃない。樹もそれを目を細めて見た後、短くなっていた煙草はそのまま灰皿へと押し潰された。マンションのベランダにも映えるような灰皿を探し、樹のためだけに用意をしたそれは、樹が使えば使うほどエモーショナルに汚されていく。樹が家に来るたびに変わっていくそれが記録のようで、とても気に入っていた。俺には必要のないものだから、余計にかもしれない。
その灰皿の中で煙草が完全に消えたのを確認して、二人で部屋の中に戻った。
「樹、ご飯は食べた?」
「食べた食べた」
言葉を交わしながらリビングに戻ってきたけれど、樹がゲームに使うタブレットと指サックが置かれたままで、ご飯を食べた形跡は感じられない。振り返り疑いの目を向けると樹は台所の方を指差した。
「うどん食ったんだって、皿そのままだから疑うなら見ろよ」
「え、偉い」
「だろ、三食ちゃんと食ってんだぜ」
俺の驚いた顔を見て、得意げに口角を上げて見せる樹があまりに嬉しそうで、両頬を手で包んで「よしよしよし」と褒めるとあからさまに嫌そうに払われてしまった。予想出来るリアクションに笑ってしまうと、樹も釣られたように笑っている。色んな人から痩せているのを心配されている彼だ。食にあまり興味がなかった彼としては前進だ。偉いと思うのも当然だろう。
「や、でもマジでえらいよ」
「まだ成長期だからな」
「……止めてね。身長伸ばすの」
そう、最近恋人は身長が伸びた。由々しき自体だと思う。樹はニヤニヤした顔をして首を傾けてみせるけれど、その仕草は憎たらしいほど可愛く見えるから止めて欲しい。
「どうしようかなー、すぐ追いつくかもよ?」
「えぇ、追いつきたいのかよ」
「だって誕生日近くて、血液型一緒で同い年でって、同じが一緒なの多い方が嬉しいだろ?」
「え?」
嬉しいと言ったその意外な言葉に驚くと、樹は「いや、お前がね」と付け加えた。俺はそっちかと落胆しながら溜息を吐けば、それが不服だったのか、樹は、なんだよ、と言いたげに眉を寄せた。
「違うのかよ」
「いやー……」
「なんだよ」
「……勝てるところなくなるじゃん」
「なんだそれ」
俺の言葉に樹はさらに眉を寄せた。俺のこういうネガティブなところ、樹が好きじゃないのは分かっている。別に対抗しようなんてしていないし、思っていない。ただ、いまの均衡が保たれなくなると、対等にいられなくなる気がしてしまう。自信が無さすぎるとよく言われるけれど、性分なのだ。
樹は俺の言葉を聞いて考えるように黙ってしまうと、暫くして口を開いた。
「身長以外に勝ってるとこあるじゃん」
そう言った樹は、少し真剣な顔をしている。褒めてくれるのだろうか、と恐る恐る続く言葉を待つ俺に、樹は言った。
「体重」
「いやそれ太ってるみたいに聞こえるけど俺太ってないからね?」
すかさず返した俺に、樹は分かっていたのかニヤニヤ笑っている。樹の方が一枚も二枚も上手で、一瞬で流れが変わった。そんな樹にホッとした俺は、やっぱり勝てないなと思いながらもなにか飲もうと台所へと向かった。
「北斗はなんか食べた?」
「うん、お弁当が出たから」
「……そ」
自分で聞いてきた割に素っ気なく返事をした恋人は、俺のところには来ずにソファーに座ったのか、キシリと音が聞こえた。
そのリアクションが、少し引っかかった。
もしかしたら何かあるのかもしれない。そう思って流しの蛇口に伸ばしていた手を下ろし、そのまま冷蔵庫の前へと移動する。
この期待がまちがっていないのだとしたら、もしかしたらとドキドキしながら冷蔵庫に手を掛ける。そして、ガチャ、と冷蔵庫のドアを開けた。
中央には、思っていた通りちょこんと小さな白い箱が入っている。可愛らしいその小さな箱は、考えなくても見慣れていて、何が入っているのかすぐに予想が着くほど、幸せが形になっている特別なものだった。
俺はそれを確認した瞬間、喜びが溢れて思わず息を止めた。樹の誕生日は誕生日で祝っていて、俺の誕生日も一緒にした感覚でいたからまさかと思っていた。だから、凄く嬉しい。大声で大歓喜したくなる衝動を抑えながらも、踵を返してリビングに戻った。
冷蔵庫を開けた音は樹にも絶対に聞こえていたはずなのに、ソファーの横に立った俺に気付かないふりをしてみせている。
「樹」
そう名前を呼ぶと、そこで初めて俺に気付いた素振りをしてみせる。そして口角を上げて俺を見上げると、「なに?」とわざとらしく聞いた。
「ケーキ、」
「あー、好きそうなやつ買っといた」
なんでもないようにそう言う恋人は、本当にできる彼氏すぎる。少し悔しく感じながらも興奮を抑えようと大きく息を吐き、そのまま隣に移動して腰を下ろした。
色々と伝えたい感情はあるけれど、軽くパニックを起こしそうになる俺に樹は楽しそうに笑った。
「惚れ直した?」
ふふ、と笑いながら、俺の顔を覗き込んでくる恋人の顔が、世界で一番大好きだ。そのアーモンドのような瞳を眺めながら、これ以上好きになれないくらいとっくに好き過ぎているのに、おかしくなってしまいそうだ。
樹の頬に手を添え、少し引き寄せるだけですぐに唇が重なった。煙草を吸った後の独特の味と匂いに最初は違和感があったのに、今では樹とキスをしているという特別な実感に変わった。
それを味わいながら、少しだけ唇を離し、もう一度唇を重ねる。そうやって何度も何度も啄むようにキスをしていると、後頭部に樹の手が回り、引き寄せられた。そして押し付けて重なっている唇の隙間に、性急に舌がぬるりと入ってきた。舌の感触が口内に這うと、背中がぞくぞくする。
俺も負けじと歯列を舐めるその舌に、舌を絡めて捕らえ、吸い付いて軽く歯を立てる。ピクッと反応した樹の身体を片手で抱き寄せると、近かった身体がさらに密着した。
服の上から樹の体温が感じられ、劣情がどうしようもなく湧き上がる。それをどうにか抑えようと絡まっていた舌を解いて舌を離すと、樹が俺の舌を追って吸い付いた。
ちゅくちゅくと、まるでフェラチオでもするかのように顔を動かして俺の舌を扱き、離すと至近距離で荒い息を吐いてみせた。
その吐息が俺の唇にかかり、その色っぽい顔つきに、このまま流されたくなる。それを抑えるために一度目を閉じると、落ち着くために首元に顔を埋めてフーッと息を吐いた。
「なぁ」
「なに、ちょっと落ち着かせて」
「勃起させてんのきつくねーの?」
頑張って理性を保とうとしているから少し待って欲しいのに、、ニヤニヤした声で樹が尋ねてくる。俺は顔を上げ、眉を寄せながら訴えた。
「大変だよ!でもケーキ食べないと日付変わるだろ!」
必死な俺の形相と言葉にびっくりした後で、樹は盛大に吹き出した。顔が真っ赤になっているのが自覚出来てしまうほど、顔が熱い。それを振り払うために樹の身体を離すと、ソファーから立ち上がった。
くすくす笑い続けている樹をそのままに、また台所に戻って冷蔵庫の前に立った。そして、冷蔵庫を開けると、白くて小さな箱をそっと大事に取りだし、台所の作業スペースに置いた。
どんなケーキが入っているのだろうかとわくわくしながら開けば、いつのまにかキッチンに来ていた樹も隣から覗き込んでくる。
箱の中にはきらきらしたケーキが二つ、見た目も繊細で美しく、少し高級そうなスイーツが入っていた。その見た目やすぐに壊れてしまいそうな作品に目を輝かせていると、樹は笑いながら話し掛けてきた。
「なぁ、紅茶とコーヒーどっち飲む?」
「それより樹どっち食べる?」
「余った方でいーよ、なぁ紅茶?コーヒー?」
「紅茶かな、俺がやるよ」
「いいって、お前の誕生日じゃん」
カップを取り出す樹に慌てて手を伸ばすと、軽く交わされてしまった。慣れたもので、何がどこにあるのかもう把握している。紅茶が入っている引き出しを開けるとティーパックを缶から取り出し、マグカップにそれぞれ入れた。そして、水を入れたケトルのスイッチをポンと押す。手際よく動いた樹にフワフワしていた俺はハッと我に返り、俺も何かしなきゃとケーキ用のお皿とフォークを棚から出して準備し、お湯を待っている恋人の後ろ姿を眺めた。
その後ろ姿を眺めているとどうしようもなく感情が抑えられなくなり、手を伸ばす。
するりと腕を回し、樹の腰を後ろから抱いて引き寄せる。樹は少し驚きながらも俺の腕に手を添えた。
「なに?ケーキ食べんじゃねーの?」
「食べるよ、」
「……なー、固いの尻に当たってんだけど」
未だに熱は納まっては無いけれど、少しずつ落ち着きを取り戻していた俺自身は、樹の髪の毛や身体の匂いですぐにスイッチが入る。先ほどまであんなキスをしていたのだ、まだ若いから仕方がないと自分で自分に言い訳をする。性欲と直結しているようで、少し嫌なのだ。けれど、その細い腰も匂いも、息遣いや声の色も、全てが愛しくて堪らない。俺はその髪の毛に擦り寄ると、そのまま顔を下ろして首にキスをした。その瞬間、擽ったいのか恋人は肩を竦めて反応した。
「ン、♡」
「……っ」
その甘い声に思わず反応してしまう。これはわざとだ。樹がいつもする煽りだと分かっていても、つい行為の最中の樹を思い出してしまう。汗ばんだ肌や荒い息、俺を欲しがる身体が愛しくていやらしくて、思い出すだけで下半身が疼いた。そんな風に動揺している俺に、樹が追い打ちをかける。
「なぁ、ケーキ後にしてさぁ、……先にSEXする?」
どろどろに溶けた甘い声で囁きながら振り向いた樹が、艶めかしく微笑んでみせる。樹の思い通りになっているのはわかっている。いつもそうだ。けれどどうしてだろうか、樹の掌で転がされるのは悪い気がしない。かといって、今日は俺にも譲れないものがある。
俺の欲望と理性の天秤がぐらぐら揺れているその間、樹の細くて綺麗な指が俺の顎を誘うように触り、欲望に天秤が大きく傾いた瞬間、半泣きになりながら首を振って訴えた。
「……したいけどさぁ!樹と誕生日にケーキ食べるって行事は絶対思い出になるから……」
「あぁ?」
「思い出してニヤニヤしたいじゃん、」
「……お前そう言うの好きだよなぁ」
苦しそうな俺を見てか、少し呆れた声で樹がポンポン、と頭を撫で、そのまま頬にチュッとキスをしてくれた。予想外の行動に俺はびっくりしてしまった。普段、照れ隠しからか色っぽくお誘いすることが多い彼は、俺を甘やかすことをあまりしない。そんな彼が頬にキスをしてくれたことに驚き、嬉しくて固まっていると、ケトルからコポコポ沸騰する音がし始めた。その音に樹が俺の腕を外し呆然としている俺をそのままに、ケトルを手に取った。
今のキスの事を聞きたいけれど、そうしてしまうともうしてくれないかもしれない。そう思って言葉を呑み込むと、自分も慌てて箱からケーキを取り出した。そっと壊れないように皿に置いて、フィルターをそっと外しておく。
そして、改めてケーキを眺めて、最高の誕生日だと噛みしめる。横ではマグカップにお湯がコポポポ、と注がれて、湯気が踊っている。
「リビング行こうぜ」
準備が出来たのを見てか、声を掛けられたのを合図にそっと倒れてしまわないようにケーキをリビングに運ぶ。樹もマグカップを持って後ろからついてきて、俺がリビングのテーブルに皿を置くと、マグカップを渡された。それを受け取り腰を下ろして座ると、やっと色々と我慢して乗り越えてきたこの時間がやってきた。
「樹、ケーキありがとう。すっごく嬉しい」
「分かった分かった」
照れ隠しか、目を合わさずに早く食べようとフォークを手に取ってしまう。樹が恥ずかしがってしまうとは分かっていても、どうしてもお礼が言いたかった。
じっと見られていることに耐えられなくなったのか、樹は文句を言おうと口を開いたけれど、その口から悪態は出て来なかった。別のところに視線を移し、そして再びその視線を俺の方に戻すと、俺の顔を見た。そしてそのまま、じっと俺の瞳を見つめる。
その熱い視線に、どうしたのだろうかと思いながらも顔を近付けると、もう少しで唇が重なるという至近距離で樹がニッと口角を上げて笑った。
「ほくと」
「なに?どうした?」
「残念だったな」
意地悪くニヤニヤした顔のまま、樹が腕に着けているゴールドの腕時計を俺に見せてきた。促されるままそれに視線を移すと、秒針が動き、0時を回ったところだった。
「あ、え?」
「っはは!」
情けない声を出した俺に、樹が心底楽しそうに笑いだす。日付が変わりそうなことに気付いた樹は、時間稼ぎに俺の目をじっと見つめていたのだ。やられた、と机に突っ伏した俺に、笑いながら樹は肩をポンポンと宥める様に叩いた。
「まぁ、また来年すればいいんじゃね」
「……来年、」
「そ、来年」
そうはいうけれど、『誕生日に樹とケーキを食べる』ためだけに我慢していた色々なことが無になってしまったのだ。溜息を吐き、顔を上げて恨みがましく樹を見遣ると、流石に悪いと思ったのか目を泳がせて笑うのを止めた樹が、おもむろに顔を寄せ、囁くように言った。
「悪かったって、誕生日おめでとう北斗」
可愛らしい声でそう言って、駄目押しに、ちゅ、とキスをされた。思わず睨んでいた顔が一瞬で緩んでしまい、単純な自分に呆れてしまう。けれど、簡単に許してはダメだと慌てて顔を作り直し、俺は念を押した。
「分かった。けど、来年こそはケーキ一緒に食べような」
「食べる食べる。なんならクリスマスでもいいし」
「~~誕生日とクリスマスは違うじゃん!」
「ああああ分かったうっせーな約束する」
絶対約束させたい俺に折れた樹が、やけくそに約束してくれた。俺はガッツポーズをして、「よし!」と言うと、樹は誤魔化す為か、「いただきます!」と大きな声で俺を無視してケーキを食べ始めた。俺はそれに続いて「いただきます」と言うと、フォークをケーキに刺して口に運んだ。
甘く蕩けるケーキに、思わず唸ると、横にいる恋人も幸せそうに笑った。

少し遅れてしまったけれど、本当はこうして過ごせるだけでも嬉しいよ。こういうささやかな時間が俺を支えてくれているし、頑張れる活力になる。
来年、必ず約束を叶えるために樹は一緒にいてくれるはずだ。だからきっと、来年も幸せな誕生日になる。
樹が隣にいるだけで、幸せは、確定しているから。

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